先日約2年ぶりに実家に帰ったのですが、個人的文脈により実家にはここ数十年2泊ぐらいしかできません。しかし、まあ色々と楽しめました。
今回の旅で一つの目的は、高校時代のマブダチの父に線香をあげに行くこと。
1年ほど前に、数年ぶりにマブダチ(5年ぐらい会っていないが親友とは会わなくても親友なもんであると思っている)から電話がかかり、「2名で飲んでるから今から飲みに来い」と言われた。もちろん東京ー岐阜間行けるわけもなく、「いや無理やろ」と即答で断った。そのあとに親父が死んだと告げられた。色々お世話になっていたので驚愕したのだが、「必ず線香をあげに行く」と言い、電話を切り、はや1年経ったということだ。
一人暮らしのツレのオカンと2人きりで長いこと話し込んだ。ずーと涙してたから、あの寡黙なお父さんは家族のために色々やっとったんやなあと自分と他人の文脈をたどりしみじみ思った。
ツレの父はがんで亡くなったらしいが、医療に対してツレのオカンは物を申したいようだ。
一番記憶に残ったのが、
「〇〇くん(私の名前)、もうね、病院の言いなりやわ」
何回も出て来たこのフレーズ、その背景には告知の方法や治療の選択、リスクなどの説明が十分または全くされておらず、セカンドオピニオンを求めに他院に行っても真面目に取り合ってくれず、元の病院の治療に戻るように言われたようだ。
実際そうでない可能性も大きいと思うが、少なくともクライエント側はそうとっていると言うことである。緩和病棟へという病院側の推薦に反して自宅へ帰り、1ヶ月療養し、再入院後3日後に亡くなったそうだ。3日前まで酒飲んどったらしいから(笑)、お父さん幸せやったと思うわとツレのオカンに言った。
実際そうでない可能性も大きいと思うが、少なくともクライエント側はそうとっていると言うことである。緩和病棟へという病院側の推薦に反して自宅へ帰り、1ヶ月療養し、再入院後3日後に亡くなったそうだ。3日前まで酒飲んどったらしいから(笑)、お父さん幸せやったと思うわとツレのオカンに言った。
様々な形でインフォームドコンセントや患者の権利が訴えられているが、基本ツレのオカンが言ったこの言い分は現在の医療の世界では間違っていないと個人的に思っている。自分の義母が亡くなった時も不明な点は多いし、同業者を批判することをタブー視するきらいがないわけでもない。
松本さん(2003)のOTに対するインフォームド・コンセントの報告では、それが重要だと思っていても積極的になれない我が国のOTの実状を示している。本報告ではインフォームドコンセントが十分にできない理由について、大きなものは「(クライエント側の)理解が得られない」、「時間的余裕がない」としている。この結果を全く共感できないわけではないが、中立的にこの文言を見れば外的統制的であり、クライエント側から見てみれば、そっちの都合は知ったこっちゃないっという感じにはならないだろうか?
(松本裕美 他 作業療法士によるインフォームド・コンセント実施の現状.OTジャーナル37:1120-6,2003)
またMaitra(2006)の報告では、作業療法士が目標を説明したとしてもクライエントが全く理解していないなど、作業療法士とクライエントとのギャップの大きさを露呈している。
*詳しくはTomoriさんのブログ で元部下のOhnoさんが日本語で解説しています↓
tomori lab 文献抄読会(4) 作業療法士はCLを意思決定に巻き込んだと思っていても,CLはそう思っていません.
実際、それから10-15年ほど経過し、セラピストの世界でもインフォームド・コンセントは制度化されつつあり、当たり前になりつつあるが(総合実施計画書、ケアプランへの署名)、正直な話、医療・介護報酬を得るためだけの形骸化になりやすいのではと危惧する。
インフォームド・コンセントの重要性は言うまでもないが、形骸化しやすい。もちろんインフォームド・コンセントの考えが及ばない分野もあるとは思うが多くの場合で必要とされる。臨床の管理者時代、うるさいくらい説明と同意に力を入れるように言っていた(実際、私の臨床時代、説明はもちろんのこと金銭的にも実施計画書はタダです。総合実施計画書はこれで3000円ですって説明すると皆びっくりしていた)。その思いは現在も継続されていると願いたい。
今回の旅で改めてSDMの重要性と難しさに気付かされたが、この難解な問題を解決する必要性が作業療法発展にも貢献すると思った。クライエントとコラボレーションするにはどうすれば良いか。SDMは一人で行う際には楽しい作業でしたが、皆で行うには壮大なテーマです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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